“型式認証”を取得し、ホンダ以来、
日本で10番目の自動車メーカーに
その後もポルシェ356のレプリカ「BUBU356 スピードスター」や、アメリカンスタイルの「ドゥーラ」、日産 シルビアをベースにした「ラ・セード」など、市販車を改造したクラシックタイプの車を次々と誕生させていきます。1996年には国の「型式認証」を取得。これは1967年のホンダ以来32年ぶりの快挙で、日本国内で10番目の自動車メーカーとして正式に認められたのです。
その頃、のちにミツオカの歴史を大きく変えることになる若者が会社の門を叩きます。東京のデザイン専門学校に通っていた青木孝憲さんは、自動車業界一本に絞り、就職活動を続けていました。しかし、大手メーカーの試験では最終プレゼンまで残るものの、ことごとく不合格。夢をあきらめて地元に帰ろうと考えていたある日、たまたまめくったカー雑誌の裏表紙にミツオカの広告を見つけたといいます。
「聞いたことのないメーカーだし、本社を見ると富山と書いてある。富山ってどこだろう? と思いながらも(笑)、“おもしろそうだな”という直感を信じて、社員募集はしていなかったのですがすぐに電話をしました」
自身のポートフォリオを送るとすぐに連絡があり、1週間後には初めての富山へ。面接で向かいの席に座っていたのは創業者であり、当時の社長だった光岡進氏。少年時代からの絵にかける思いや、ほかのどのメーカーを受けてどう感じたか、将来的にはどんな車をつくりたいか、という本音をすべてぶつけました。
話を聞き終えた社長は、「すぐに来い」とその場で“合格通知”を出し、青木さんのカーデザイナーとしての人生がスタートしました。ミツオカの懐の深さや“ほかとは違う”哲学を感じます。
入社3年目、立ち上げまもない現在の東京ショールームでひとり乗りのマイクロカーに乗って営業に走り回っていた頃、先輩から「ミツオカが東京モーターショーに出展するらしい」という噂を耳にします。
全国のカーマニアを唸らせた
“和テイスト”のスーパーカー
「新車種を出展するなら、なぜ真っ先に自分に声をかけてくれないのか? 腹が立って、絵を描きまくって本社に送りつけました。けれど当時の光岡進社長の反応は、『ほかのメーカーでもつくれそうな、つまらないものを出すな!』と。たしかに社長の言うとおり、どの案もどこにでもありそうな“メジャー”なスーパーカーでした。そこから『自分にしかできない唯一無二のスーパーカーとは何だ』と自問自答を重ねて、最後に出てきた案がオロチでした」
大好きなロックの反骨精神や蛇の妖艶な存在感を昇華させたオリジナリティあふれるデザインは、なんと役員会議で満場一致で採用されたのです。
2001年の東京モーターショーに出展したオロチのブースには常に人だかりができ、予想を超える反響を呼びました。1050万円(当時)という価格設定ながら、数十名の購入希望が集まり、商品化が決定。『スポーツカー・オブザイヤー』にも選出されました。
その後に発売した、『エヴァンゲリオン』のメカニックデザイナー、山下いくと氏によるデザインをボディ全面に施した「エヴァンゲリオン オロチ」も大きな話題を呼びました。セブン-イレブンの史上最高価格となる1600万円で限定1台が発売され、およそ600倍の応募を集めるまでに。
その名を知られることになった青木さんは、その後もヒミコ、ロックスター、バディなど、多くのヒット作を生み出し続けます。実は光岡自動車は、車の生産だけでなく、〈BUBU〉という名称でインポートカーのディーラー事業を全国に展開しています。その土台があるからこそ、メーカーとしてはチャレンジできる姿勢をもつことができるようです。
「後発のメーカーとして生まれたからには、一般常識や多数派という価値観の“真逆”を行かなくてはなりません。それがミツオカらしさにつながっています。僕自身もまさにその考えで、自分の信じてきたものを表現してきた結果、多くの人に受け入れられたのだと思います」
独創的で“人と違う”ものでも多くの人に影響を与えることができるものづくりは、ミツオカの特徴かもしれません。
「当時、会場に見にきていた小学生が大人になってミツオカに入社してきたり、ほかの大手メーカーにも『モーターショーで見たオロチに衝撃を受けてこの業界に入りました』と言ってくれる人がいたり。誰かの人生に影響を与える仕事ができたことは、とても誇らしいことですね」