富山出身であることが財産に。
「好き」を貫き、ストーリーを描き続ける
作家、舞台演出家・松澤くれはさん | Page 2
series|I’m Your Home. ~挑戦する君へ、先輩たちの言葉~
好きを貫いて、仕事に。
継続した先に結果はついてくる
作家・舞台演出家として活躍する松澤くれはさん。その名前が示すように、ペンネームの“くれは”は出身地である富山県富山市呉羽町に由来している。
地元には、〈富山市民芸術創造センター〉=「芸創」と呼ばれるホール施設があり、行政をあげて芸術に力を入れている印象がある。幼い頃から身近に音楽や演劇のある環境で育った松澤さんが、高校時代に演劇部に入部したことをきっかけに舞台演出の道を志したのは、とても自然なことだったよう。
「富山県には、国際的な演劇祭も開かれ“演劇の聖地”といわれている南砺市利賀村という有名な場所があるので、演劇に力を入れている風土があったと思います。毎年夏には県下の高校の演劇部が利賀村で合同合宿をやって、演劇界から有名な方々が講師として来られてワークショップをやったりしていましたね。
そうして本格的に創作をやるようになると、家の近所にもいい稽古場があるじゃん! と。芸創は結構大きな施設で、楽器演奏のスタジオや演劇の稽古場として安く借りられたんです。
高校の演劇部だけじゃなくて、学生で集まって劇団をつくったり、富山大学の演劇サークルとも交流させていただいたり、社会人劇団に出入りさせていただいたりと、そこで先輩たちから学びを得る機会になりました。演劇部の垣根を越えて、自分たちで劇場を借りて仲間内で公演をしたりもしましたね」
演劇どっぷりの高校時代を過ごした松澤さんは、早稲田大学第一文学部演劇映像専修に合格し、上京。ますます演劇まっしぐらの道を進むことになるが、そもそも演劇に魅了されるきっかけはなんだったのだろうか?
「最初の動機は結構不純で、演劇部って目立てそうだな、くらいの感じで始めたんです。でもやってみたら、普通に高校生活を送っていたら絶対にやらないような非日常的な経験がすごくおもしろくて。ステージの上でセリフを発して誰かを演じる。しかもスポットライトを浴びながら。そこから、演じるということにのめり込んでいきましたね。
思い返せば小学校の学芸会なんかでも主役に立候補するような子どもだったので、もともと興味はあったと思うんですよね。“三つ子の魂百まで”じゃないですけど、いまよりもっと怖いもの知らずというか、ガンガン前に出るようなタイプでした。そんな経緯があったので、最初は役者志望だったんです。上京したのも俳優になりたかった、みたいなところもあって。
でも、高校の担任からは『演劇なんて潰しが効かない』『30歳になっても4畳半でカップ麺をすすってるような生活したいのか』みたいなことも言われました。でも、カップ麺すすりながらでも演劇をやれているなら、いいかな。くらいの気持ちだったので、その言葉をデメリットに感じなかったんですよね」
そうして始まった、大好きな演劇に触れながらのキャンパスライフ。加えて、家から30分も行けば国宝を見られる博物館や美術館があり、これまでテレビや漫画の中で見ていた渋谷や原宿、秋葉原のまちが現実としてそこにある。文化に触れられる機会の圧倒的な多さに感銘を受けながらも、ひとりで生き抜いていかなければならないという現実も実感したという。
「地元を出ると、もう“自分で闘わないといけない”みたいな覚悟がありましたね。誰にも頼れないというか、例えば東京出身者なら実家から大学に通えますし、卒業してもそんなに稼げなくても家がある。でもこっちは家賃も払わなきゃいけないし、昔からの知り合いもいないからコネクションもない。いろいろなことを自分で決めて、競争していかないと生きていけないんだということを学びました。
母校の早稲田には、OB・OGはもちろん、学生の頃から売れている先輩が普通にいましたし、優秀なやつ、才能のあるやつはゴロゴロいるし、天才なんて言われている同期もいて。結果を出さないと構ってもらえない、先輩に名前すら覚えてもらえない。学生時代から“もうすでに始まってる”感みたいなものがあって、結構過酷でしたね」
在学中に劇団を立ち上げた松澤さんだが、周囲は就活真っ只中。けれど、就職するという選択肢は一切浮かばなかったそう。
「自分がやりたいことを実現するために就職先を探すことは正しいと思います。でも、就職することが目的になるのはおかしいなと思っちゃったんですよね。だから自分は演劇がやりたいのに、どこかの会社に入るっていう選択肢はなかったんです。
卒業した先輩たちを見ていても、そんなに悲惨なことにはならないだろうなという楽観も少しあって。選ばなければ働き口はあるだろうし、究極死ぬこともないだろう、と。
ただ、卒業したタイミングで就職した同級生からは『好きなことやれてていいよね』みたいな、就職しないことを見下すような視線を感じることもあって。それに対する反骨精神はすごくありましたね」