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スタジオでピアノを演奏中
lifestyle

地元に恩返しがしたい。
富山発のプロジェクト〈ATAWARI〉を立ち上げた
音楽家・TAIHEIさん(Suchmos/賽) | Page 2

series|I’m Your Home. ~挑戦する君へ、先輩たちの言葉~

30歳までに音楽で食べていく。
覚悟とともに始まった東京での日々

富山県氷見市出身のTAIHEIさん。洗練された音楽性で多くのファンの心を掴んでいるバンド〈Suchmos(サチモス)〉や、自身が中心となり結成したバンド〈賽(SAI)〉の鍵盤奏者だ。Suchmosの楽曲はテレビCMなどに起用されるなど、知らず知らずのうちに彼らの音楽を耳にしている人も多いかもしれない。

音楽教室の講師をしていた母親の影響で、2歳からエレクトーンを習っていたというTAIHEIさん。また、生まれ育った氷見市はハンドボールの強豪校が揃う“ハンドボールの聖地”で、父親がハンドボールの指導者ということもあり、TAIHEIさんも中学時代までは本気でハンドボールにも取り組んでいたそう。そんな彼が音楽の道を歩むことを決意したのは高校2年の夏だったという。

「どつかれる覚悟で、両親に音楽で食べていきたいと話したら、『とりあえず座れ』と言われて。どうしてそう思ったかを話したところ、『わかった。ただひとつだけ約束しろ。30歳になるまでに食えなかったら、富山に帰ってきてもう一度人生を一からしっかりやり直せ』と言われたんです。

当時は親戚も友だちも東京におらず、何の根拠もないのに『絶対に帰ってこないけどね』と強気で返事をしつつ、約束をしました」

インタビュー中のTAIHEIさん
〈Suchmos〉などで活躍するTAIHEIさん。

当時通っていた高校はかなりの進学校。音楽大学を目指す生徒はかなり珍しかったようだ。

「先生に音大を目指したいと言ったら、『高校としては音大に行くという道をサポートすることはできないけれど、それでも受験するならがんばれ』と言われました。

高校3年生になると、授業はあるものの、自分で勉強できるプランを組める時間が増えたので、音楽の授業や吹奏楽部の活動が入っていなければ、音楽室のピアノでずっと曲をつくっていました。いま思えば、このときが一番ひとりで音楽に向き合っていましたね」

決して音大受験に適しているとはいえない環境にもかかわらず、くじけなかったTAIHEIさん。

「ハンドボールをやっていたときに手に入れた、『一度やり始めたら徹底的に最後までやる』とか『みんなが辛くて省く練習を一番しっかりやったチームが強い』みたいな精神性と一緒でしたから。俺の場合は好奇心がきっかけになって何事もポンッとやり始められるので、『最後までやらないと負けだな』という気持ちだけでやっていました」

スタジオでピアノに向かうTAIHEIさん
自宅併設のスタジオにて。

そして晴れて洗足学園音楽大学の音楽・音響デザインコースに現役合格し、18歳で県外に。しかし入学して早々、プロの音楽家になるためにはそれまで培った知識と技術だけでは足りないと実感させられたという。

「大学に入った瞬間『どうやら俺は本当に何も知らないんだ』ということを思い知りました。1年生の間はめちゃくちゃ真面目に音楽理論や機材の仕組みといった基礎を学んだほうがいいなと思ったので、フルで単位を取りました」

大学2年生からは作曲の仕事をすでに始めていたというTAIHEIさん。3年生へと進級すると、Suchmosを含むふたつのバンドにメンバーとして加入。さらに事務所に所属し、インディーズからデビューすることまで決定し、レコーディングと、ツアーや音楽フェスへの出演予定だけで1年のスケジュールが埋まってしまうほどの忙しさに。

若くしてプロの音楽家として活動のスタートを切ったTAIHEIさん。そこで気づいたのは人脈の大切さだった。

「早めに社会に出て、一番足りなかったのが、生きていくうえでの人脈だったんですよね。東京に親戚も友だちも、先輩も後輩もいないっていう状態だったので、自分で友だちを増やすしかないなと思って外に出まくりました。

ただ、友だちといっても年の差はあまり関係なく、一緒にいると『なんか高校が一緒だったような気がするな……』くらいの気持ちになれる人は友だち。60代の先輩ミュージシャンでめちゃくちゃ仲がよくてリスペクトしているすばらしい方もいれば、俺より10歳年下で大先生だと感じている若手のミュージシャンもいたりします」

スタジオでのピアノの演奏中の様子

そんな友だちとの関係から学んだことも大きかったようだ。

「これまでいろいろな失敗をしてきましたが、その失敗のおかげで人としての筋を通すべきことや、大事なことをたくさん学んできました。そう考えると、年齢に関係なくリスペクトできる友だちがいっぱいいることが一番大事な気がします」

いまでは仲間たちと、富山の魅力を発信するプロジェクトも。若かりし頃は「富山へ帰る気はない」と県外に出たTAIHEIさんだったが、いったいどんな心境の変化があったのだろう?

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