第二の人生に選んだ、かんじき職人という生き方。
立山の伝統工芸を受け継ぎ後世へ
「師匠が引退した理由は、高齢で体力的に限界を迎えて、材料を採ってくるのが『えらい』(※『たいへん』という意味の富山弁)ということで辞められた。辛くてもうダメやということで。採った材料は背負子(しょいこ)で担いで山を下りるんだけど、このへんの立山山麓は急斜面が多くて険しいから、本当にたいへんなんですよ」
かんじき職人になる前、荒井さんはタイヤ関係の会社を経営していました。体力的に厳しい仕事で腰痛にも悩まされ、いつ体を壊してしまってもおかしくないような状態。経営者という立場上、なかなか休みをとるのも難しく、仕事に追われる日々が続いていました。
そんななかでも、唯一の息抜きでもあった趣味の山遊びは、当時の大きな楽しみだったといいます。
「僕は富山の標高600メートルの小原村っていうところで生まれて、幼い頃から山が好きだったんです。会社をやっていたときは日帰りで行ける山ばかりだったけど、剣岳とか槍ヶ岳とかいろいろ行きましたよ。やっぱり楽しかったですね。それで、60歳のときに自分の会社を譲ることにしました」
還暦を迎え、社長業を引退した荒井さんが選んだ第二の人生は、かんじき職人の道でした。きっかけは、あるとき目に留まった新聞記事。そこには、荒井さんの師匠である佐伯英之さんが引退するという内容が書いてありました。
「山が好きだからって、60歳で遊ぶわけにもいかんでしょう(笑)。最初は山小屋で働こうかと思ってたんだけど、たまたまかんじき職人を引退するという人を新聞で知ったんですよ。それが師匠。だから元々知り合いだったわけではないんです」
ある知人を介して師匠の佐伯さんを紹介してもらい何度も足を運んで頼んだものの、そのたびに断られていたという荒井さん。たいへんなのに儲かる仕事ではないこと、これまで教えた人たちで続いた人は誰もいないこと。かんじき職人として生きていくのは簡単ではないという厳しい現実を、忠告されたのでした。
「絶対にすぐ辞めるって思っとったらしいです。だから僕、自分の会社を譲った話もしたんです。お金儲けのためにやるわけじゃなくて山が好きでやりたいんだっていう話をしたら、それなら教えてやると認めてくれました」
数か月という短い期間のなかでの師匠の教えは、「基本は教えるから、あとは自分で考えて工夫しながらやりなさい」というもの。そして、本気でやるからにはできるだけ協力するということで、独立後には荒井さんの自宅敷地内に作業小屋まで建ててくれたそうです。
「師匠はなんでも自分でつくるすごい人ですよ。それまで鉈でつくっていた立山かんじきの『爪』を、機械でつくることを考えました。今でもずっとつき合いがあります。野菜が採れたりしたら僕も持っていくし、師匠も普段から『どうや?』って顔を出してくれる」