心地良さを生み出す美意識と
文化を醸すためのまちづくり
「自分が考える心地良さって、努力しないと生まれないものでしょう。僕は普段あえてニュースを見ません。世の中のうんざりするような情報や出来事にふれることで自分の心が乱れたり、振り回されたりするのが嫌なんです。心がけというのは大事です。そういう意味では、自分が暮らす場所や住むまちだって同じ。受け身でいるだけでは生まれない。自らがつくろうとして、あるいは感じようとすることで生まれるものでもあるから」
何が心地良くて、何を美しいと感じるか。桝田さんが考える居心地の良さとは、身の回りの環境からまちの景観にいたるまで、共通の美意識が宿っています。
岩瀬というまちで生まれ育ち、大学卒業後は神戸で7年を過ごし、さらにはイギリスを中心に1年ほどの海外生活を経験した桝田さん。地元を離れたことによって富山や日本に対する見方が変わり、その視点はのちにまちづくりにも大いに活かされることに。昨今の岩瀬のムーブメントを語るうえでは欠かせない立役者でもあるのです。
「自分が行きたいと思うお店がどういう場所で、写真に収めたくなるような風景がどんなものなのかは、生まれ育ったまちを離れたことで気付いたところがあります。
岩瀬に戻ってきたとき、商店街はほとんどシャッター街へと姿を変えてしまっていました。だから当時、なるべく空き家が売りに出た瞬間に買って直しましたね。31歳のときにつくった蕎麦屋さんが最初です。よく、まちづくりの例として取りあげられることが多いけれど、僕自身はそこまでの認識はなくて、気が付いたら今のようになっていたという感じです」
始まりは旧材木店を購入し、店舗が老朽化していたため移転先を探していた富山の老舗蕎麦屋「丹生庵」の再生を目的としたことがきっかけでした。次に、桝田さんはものづくりを生業とするさまざまなアーティストたちに、岩瀬に遊びにこないかと声をかけました。
すると、このまちを気に入ったガラス作家の安田泰三さんや陶芸家の釋永岳さん、さらには彫刻家や漆作家といった手仕事の作家たちが移住し、ギャラリーや工房を構え始めました。
「家を売りたい人がいて、仕事がなくて困っている大工さんがいて、ものを売れる場所がないという焼き物の作家がいて、なんとかして営業を続けたいという蕎麦屋がいる、そんな状況がありました。ならばここに店をつくってしまえば、いろんな人たちの困りごとが全部クリアになるんじゃないかと考えたわけです。それと同時に、まちの文化をつくっていくのは、やっぱり食とものづくりだと思っていましたから。
ある人からは当時、『蕎麦屋って知的好奇心が高い人たちが集まるから、岩瀬はそういう人たちが集うようになってまちを見てくれるようになる。いい場所をつくったね』といわれたのをよく覚えています。
ひとり、またひとりとキーマンになるような人がこのまちにきてくれたおかげで、その人たちが呼び水になっていろんな人がきてくれるようになったんです。思いを持った人やその道を極めようとしている人たちって、どこか共通したものがあると思うんですよね。僕にとってはみんな、家族みたいな人たちです」