山のイラスト
インタビュー中の高木新平さん
lifestyle

広い世界へ飛び出し、
富山県のブランディングを手がけるまでに。
クリエイティブ・ディレクター高木新平さん | Page 2

series|I’m Your Home. ~挑戦する君へ、先輩たちの言葉~

コンプレックスからの脱却。
違いこそ価値になる

富山県射水市出身の高木新平さん。高校生まで地元で過ごし、大学進学を機に上京。コンプレックスを抱えながら過ごした富山での日々は、悶々とくすぶっていた時期もあったという。

けれど地元を離れ、成功体験をひとつひとつ重ねながら、自身で道を切り拓いてきた。現在は富山県の成長戦略会議委員、ブランディング戦略プロジェクトチームの座長という大役を担い、地元に貢献しながら、これまでの自身の経験を力に変え、「過去を回収している」という。

高木さんは射水市ではどんな幼少期を過ごしてきたのか? 学生時代の思い出をうかがうと、ゆっくりと記憶を辿るように話し始めてくれた。

「たぶん、僕の人生の最初のピークは小学校4年生の頃。目立ちたがり屋で、サッカーもしていていい感じで、学級新聞で4年3組で一番かっこいい男子に選ばれたりもしていました。でもその後、成長期が遅くて、中学に入ってからはどんどん活躍の機会を失っていった感じなんです。

実は左手に障害があって、子どもの頃は義手をしていて、夏でもずっと長袖を着ていたんです。それを理由にいじめられるということはなかったんですが、同調圧力みたいなものはあって。中学2年生くらいから事あるごとに学校を休みがちになったんです。

でも、守りのために着ていたロンTをきっかけに、当時流行っていたストリートファッションに目覚めて。“違いを価値にしてくれる”と気づくことができて、ファッションは自己の確立に大いに影響を与えたと思います。

その後、高校は地元の進学校に入りましたが、“入学おめでとうテスト”の結果がなんと280人中275位。一気にやる気を失い、ますますファッションに傾倒していきましたね」

インタビューの様子

「高校ではクサッていた」と振り返る高木さん。謹慎処分を受けるなど、やらかし時代を過ごしたようだが、育ててくれた両親への恩を感じて改心し、大学進学を決意し、上京。みごと現役で早稲田大学に入学するも、東京では富山弁を封印し、富山出身であることも隠すほど地元にコンプレックスを抱いていたそう。けれど上京した最初の夏に、その後の人生を大きく動かす転機が訪れる。

「大学1年の夏休みに、人生で初めて飛行機に乗って、タイとフランスにひとり旅をしたんです。そこで、世界は広いなって思いましたね。東京に出たことも大きかったですが、それまでは富山の山の内側にしかいなかったので、山を越えたらこんなに広い世界があるんだって思いました。

本当にいろいろな人種、身分、バックグラウンドの人がいて、ひと口に人間といってもこれだけさまざまな人がいるんだって。1か月くらいの旅を通して、自分のなかでも世界が一気に広がりました。そこで出会った人たちは、それぞれ自分のプライドみたいなものがちゃんとあって、やっぱり自分のスタイルを貫いている人は、すげえかっこいいなと思ったんです」

富山にいた頃は、外に出ることに怯えがあったという高木さん。

「あのまま外へ出なければ、狭い世界のなかで、自分だけちょっと人と違うと感じながら、それを隠して生きていたと思う。でも、自ら環境を変えたことで自分の人生が良くなっていったこと自体が成功体験になっていったんです。別の場所へ行ってもやっていける! と。

だから、これから何かに挑戦しようかと迷っている人は、自信を持って、飛び出したらいいなと思います」

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